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01.沖縄戦とひめゆり学徒隊
太平洋戦争末期の1945年3月から3か月余り、日米両軍は沖縄で住民を巻き込んだ地上戦を繰り広げました。米軍は、日本本土攻略の拠点として沖縄を確保するため、圧倒的な物量で攻撃しました。日本軍は、沖縄を本土防衛の防波堤と位置づけ、米軍の本土上陸を1日でも遅らせるために、壕に潜んで長期戦にもちこむ持久作戦をとりました。この作戦が沖縄戦を長引かせ、日米の戦死者は20万人以上にのぼりました。その6割に当たる12万人は沖縄県民でした。
日本軍は兵力不足を補うため、沖縄県民を「根こそぎ動員」し、中等学校や師範学校などの10代の生徒まで戦場に動員しました。那覇市安里にあった「沖縄師範学校女子部」と「沖縄県立第一高等女学校」からも、生徒・教師240名が看護要員として動員され、そのうち136名が死亡しました。2校の愛称が「ひめゆり」であったことから、戦後、彼女たちは「ひめゆり学徒隊」と呼ばれるようになりました。
02.男女学徒隊の戦場動員
沖縄戦では、県内にあった21の全ての中等学校・師範学校から生徒が戦場に動員されました。女子は主に看護活動、男子は砲爆撃の中、部隊の物資運びや伝令(命令の伝達)、橋の補修、電話線の修復などを行いました。米軍戦車への自爆攻撃を命じられた生徒もいました。
生徒の戦場動員は、軍の要請によって、軍と県との話し合いで決まり、学校が従いました。女子生徒の戦場動員に法的な根拠はなく、男子生徒の戦場動員に必要な法的手続きはとられませんでした。
学徒隊として学校から動員された生徒のほかに、兵隊として入隊した生徒、自宅近くの部隊に動員された生徒、家族と避難中に命を落とした生徒もいます。あわせて約2000人以上の生徒が沖縄戦で亡くなりました。
03.南風原の沖縄陸軍病院
1945年3月23日夜、ひめゆりの生徒は引率教師とともに学校を出発し、南風原にある沖縄陸軍病院に向かいました。沖縄陸軍病院は兵隊のための病院で、小高い丘に40近い壕が掘られ、その中に粗末な二段ベッドが並んでいました。
生徒たちの多くは、看護婦と一緒に患者の世話を行いました。尿や便の片付け、水や食事の世話、包帯交換の手伝いなどに走り回り、休む間もありませんでした。特に、飯上げや水くみ、死体埋葬は、壕の外に出て行く命がけの仕事でした。動員された生徒は222名、教師は18名にのぼりました。
04.過酷な勤務
患者の食事は、初めのうちは、テニスボールぐらいのおにぎりが1個、朝夕2回ありましたが、だんだん小さくなって、ピンポン玉くらいのおにぎりが1日1個になりました。生徒の食事も同じでした。
米軍との戦闘が激しくなると、壕は重傷の患者でいっぱいになりました。生徒が横になる場所はなく、壁にもたれて仮眠を取りましたが、すぐに患者に呼ばれて起こされました。患者は、「水をくれ」「おしっこがしたい」「痛い、痛い、何とかしてくれ」と呼び続けていました。
食べ物も飲み水も少ないせいか、生徒たちには生理も排便もほとんどなくなり、汚れた衣服や頭にはシラミがわきました。青白くやせ細っていき、高熱におそわれ倒れる者も出てきました。
05.南部への撤退
5月22日、首里の第32軍司令部に米軍が迫り、日本軍は南部への撤退を決定します。5月25日、沖縄陸軍病院に撤退命令が出され、生徒たちは患者に手を貸し、傷ついた学友を担架に乗せ、砲弾の中を南部へと急ぎました。
沖縄陸軍病院の関係者や教師と生徒は、糸満の伊原一帯に到着後、6つの壕に分かれました。医療器具や薬品、負傷兵を収容する場所もない状況で、病院はその機能を失います。
6月中旬には、米軍が南部へと迫り、陸軍病院の壕も次々と攻撃されていきました。
06.解散命令と死の彷徨
6月18日夜、陸軍病院では学徒隊に「解散命令」が言いわたされました。壕を出た生徒たちは、茂みや岩陰に身を隠し、海岸へと追い詰められていきました。砲弾の飛び交う中、傷ついた体をひきずって逃げる者、負傷した学友を助けて歩いていく者、重傷で動けずその場に倒れる者、砲弾に吹き飛ばされる者、ガス弾 (黄リン弾)攻撃を受ける者、手榴弾を爆発させる者、海岸で大波にのまれる者など、行き場を失い、父母を呼びながら死んでいく生徒が続出しました。
生徒の多くは、6月20日から28日の間に米軍に捕まり、各地の収容所に送られましたが、なかには日本の降伏も知らずに8月22日にまで壕に隠れていた生徒もいました。
07.ひめゆり学徒の動員・死亡状況
沖縄陸軍病院に動員された生徒・教師240人のうち136人が死亡しました。死亡者の86%にあたる117人が6月18日の解散命令後に死亡、または行方不明になりました。「解散命令」は、結果的に米軍の包囲網の中に生徒たちを放り出すことになり、その後の犠牲を飛躍的に増やしたのです。
沖縄陸軍病院に動員された人以外にも、91人の生徒と教師が沖縄戦で亡くなっています。
08.ひめゆり学徒隊の戦跡「伊原第三外科壕」
現在、ひめゆりの塔が建っているガマ(鍾乳洞)は、沖縄陸軍病院の第三外科が南部撤退後に入っていた壕で、「伊原第三外科壕」と呼ばれています。「伊原」はガマがある場所の地名です。ひめゆり学徒を含む陸軍病院の看護婦や兵隊、住民などおよそ100名が隠れていました。19日早朝、米軍の攻撃を受け、80名あまりが亡くなりました。